「経済学者たちの日米開戦」を読む

「経済学者たちの日米開戦」秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く 牧野邦昭著

新潮選書 2018年刊

 

本書で紹介される秋丸機関の「抗戦力調査」は、同時期になされた総合力研究所の報告(猪瀬の「昭和16年の夏」に詳しい)と類似の報告であり、特に目新しいものでもない。「幻の報告書」というタイトルは販売を目的にしたキャッチコピーであろうか。

本書で著者の言いたいことは、幻の秋丸機関の報告書についてというより、次の2点であろう。
すなわち、①報告に記載された日米の国力の強大な差(20対1)が、”一般には知らされず政府・軍など限られた層だけで情報を秘匿し、彼らが独断的に戦争を開始した”という通説を否定し、軍や一般雑誌(雑誌「改造」など)により(その事実を)国民の誰もが知っていたという指摘。
そして、②「正確な情報は広く知られていたのになぜ開戦した」のかという理由として行動経済学社会心理学の知見を持ちだし、「プロスペクト理論(損失回避)でリスクの高い選択が行われやすい状況の中で、リスキーシフトが起きて極めて低い確率の可能性に賭けて開戦という選択肢が選ばれ」た(本書p.160)とする。

しかし、①についていえば、当時、そうした事実が果たして国民に”広く知られていた”と言えるだろうか。報道統制が徹底していた当時のマスコミが広く報道するわけもなく、米国へ行ったこともない大多数の国民に正確な情報が広く知られていたとはとても言えない。むしろ、国民は日中戦争の長期化に倦み、局面打開のために開戦を支持する気運のほうがはるかに高かったのではないか。天皇が”開戦しなければクーデターが起こる”と言及された判断は、そうした状況からしか生まれないはず。当時、「改造」などを読む層は、ごくごく限られた層でしかない。ありえないことであるが、新聞など多くのメディアが国民に正確に情報を提供していれば、国民の反応も違っていたかもしれない。著者の指摘は、ある意味、国民を開戦への消極的共犯者とする愚弄発言ともとれる。 
また、②については、何も行動経済学やら社会心理学などを持ち出さなくても容易に推察できることである。”可能性は低いとしても座して死を待つよりはましという開戦論が集団的意思決定で積極的、消極的判断いずれにせよコンセンサスを得た”ということは何も理論を持ち出すまでもなく容易に推定できることである。これは読者に対しもっともらしい理論を振りかざす学者の権威主義の悪しき例ではないか。

本書で問題なのは、そのような報告が開戦か避戦かの判断に何らかの影響を持ちえたかのような幻想を読者に抱かせることである。開戦直前の昭和16年半ばというタイミングでのこのような議論は、結果的には無意味であり、秋丸自信も回想で「今更そんな話を聞いても仕方がないという雰囲気でみんな居眠りをしていた」と言っている。(p.130) 海軍はすでに昭和15年暮れに水師準備に入っており、(よほど強力な世論・国民の反戦、避戦運動がなければ)開戦を避けることはできなかったというのが本当のところではないか。

さらに、根本的な問題は日米開戦について議論するには、少なくとも満州事変、さらには日露戦争にまでさかのぼった歴史的スパンの中で議論すべきという視点が一切抜け落ちていることである。(主戦派の軍人から)日露戦争の例を出されて「あの時も巨大なロシアと戦って勝利を得たではないか。なぜ今回のアメリカとの戦いで勝ちを得られないと断言できるのか」と問われたとき、はたしてどのように答えるのか。
”やってみなければわからない”と”声の大きい人が勝つ”という説は、現代でもそれなりに力を持っている。まことに厄介な話である。

 

また、開戦、避戦の議論が純粋に国益を考えた議論であったか、それとも陸海軍の組織防衛、利益維持のための生臭い思惑も入っていたのではないかという点も検証すべきであろう。

 

本書の秋丸報告や総力戦研究所の報告も、単にそうした事実があったということ以外、残念ながら現代に生きる我々にとってほとんど何の教訓にもならないのではないか。