適菜収「安倍晋三の正体」を読む 安倍の国葬について

安倍については本書の指摘以外にも、アベノミクスの弊害や官僚人事の独占による官僚の堕落の招来など批判すべき点は枚挙に暇がない。特に、日銀黒田を使って日銀の中立性を破壊し低金利政策と財政垂れ流しで世界に冠たる国家債務を積み上げた罪は重いと言わざるを得ない。しかし、彼の在世中はメディアをはじめ批判の声は少なく、私のまわりにも安倍礼賛者が沢山いた。しかも、それなりの大学を出たインテリおじさんたちも結構いた。
そんな中、安倍は暗殺による死後、国葬となった。戦後、吉田茂国葬となったが、彼と比べてろくに政治的功績もなかった男が国葬になったのだ。確かに、暗殺というのはショッキングではあるが、戦前には原敬はじめいくらもあった。そんなことが国葬の一因とすれば、まことに滑稽と言わざるを得ない。
戦前、山本五十六国葬となった。すでに負け戦の状態でとても国葬に値するような男でなかったが、国民へのフェイク情報(真珠湾からわずか半年でミッドウェイで大敗した事実の隠蔽など)と国威発揚目的とで国葬となった。
山本の場合、政治的意図を持った国葬であったが、安倍の国葬は一体何のためだったのだろう。単なる安っぽい政治ショーだったのだろうか。安倍政治の無茶ぶりを締めくくったのが国葬という茶番。時の政治家、メディア、そして日本国民は自らの無定見さを思うとともに、今もそれが続いていることを認識すべきではないだろうか。

「日本の死角」現代ビジネス編 講談社現代新書 2023年刊

現代日本の抱えている諸問題を総花的かつ簡潔に知る本として本書を手にした。
しかし、防衛問題はおろか経済問題にも言及した論説がなくその点残念な書。
全体に各論とも短くまとめられており、さほど難しい内容でもないので30分ほどもあれば通読できる内容ではある。

本書で一番気になったのは、冒頭の「日本人は集団主義という幻想」という所論。
著者は国際比較で見ても日本は集団主義の国ではないと主張しているが、この所説には実感としても納得できる人が少ないのではないだろうか。


疑問の第一は、著者の言う調査研究も実験研究もいわば真空状態の実験室で行われた研究のように思われ、現実の人間の社会行動を的確に反映しているのか疑問ということ。こういうテストでは同調しない人も、現実の社会では声の大きい人に賛同することはよく見られることであり、さらに利害・出世など様々な思惑が入った場合はどうなんだろう。最近、多く語られる同調圧力や忖度をどう考えたらよいのか。
また、同書「日本の学校からいじめがなくならないシンプルな理由」で展開される初中等教育における制服・髪型など生徒を一律化する学則や運動会・いじめ問題などは、明らかに集団主義を強制する体制ではないのだろうか。

「日本の戦争はいかに始まったか」は歯痒い議論が多かった

「日本の戦争はいかに始まったか」波多野澄雄・戸部良一編 2023年刊 新潮選書 の書評


連続講義 日清日露から対米戦までというサブタイトルで8名の歴史学者が日清・日露戦争から始まり太平洋戦争までについての講演録である。


その中で、興味のある点についてのみ述べたい。

 

まず、第一次世界大戦(第2章)について。小原淳早大教授。
参戦国が激しい対立を示していなかったという点で、明確な国家意思としての参戦というよりも偶発的な連鎖で起こったとする「夢遊病者たち」(クリストファー・クラーク著)の紹介が主で、あとはこの戦争が総力戦という概念を生んだことをさらりと言及している。
しかし、本書の趣旨からすると、第一次大戦のもたらした日本への影響についての議論をもっとしてほしかった。
日本では、川崎造船が船舶特需で莫大な利益を上げ、(その結果、松方コレクションができた)、政府も火事場泥棒よろしく“対支二十一か条”要求を中国に行うなど、大方にとってこの大戦はまさに”天祐”であり金儲けのビッグチャンスであり、”対岸の火事”でしかなかったように思う。他方、軍部にとっては、軍事思想が総力戦概念へと一大変質をし、今後の戦争が国力の差に大きく依存すること、そうした状況で日本の国力は欧米に比し圧倒的に劣位にあるという認識を一部軍人に与えた戦いであった。それが石原莞爾の世界最終戦論にもつながった。この観点からすると、ロンドン軍縮条約に国を挙げて猛烈な反対をしたことはまことに奇異な現象に思える。国力の劣る日本にとって無制限な建艦競争に資源を浪費するより国力の増進に努めるほうがはるかに合理的であったはず。(五大国日本という)世論の高揚感が軍縮条約反対をあおったのであろうが、(石原のように)第一次大戦の教訓を正当に理解した軍人が海軍を含め少なかったことが大きな要因であったように思う。

次に、満州事変について。(第三章)井上寿一
井上は、満州事変は”外からのクーデター”であり、政府の1930年の日華関税協定が満蒙の切捨て策として関東軍の反発を生んだのがその原因とする。本書で不思議なのは満州事変の経緯のみを議論するだけで満州国の成立と絡んでの議論がないこと。事変後僅か1年で満州国が建国された事実は、事変が明らかに満州領有(現実には満州国の建国)を企図して行われた証拠であり、関東軍さらには軍部にも総力戦対策という構想が根底にあった。この点を見逃しては満州事変の意味が理解できないはず。そのことをもっと強調してほしかった。

 

最後に、対米開戦の引き返し不能点についての議論。(第9章)
本書の学者たちが、その転換点を韓国併合であったり、南部仏印進駐、三国同盟締結、日米交渉、さらには嶋田海相の対米戦への海軍同意時などを挙げているが、そんな議論にどこまで意味があるのか正直疑問である。後付けの議論としては面白いかもしれないが、当時の状況を考えれば、結局、対米戦は不可避であったように思う。
そういう開戦回避に関する不毛な議論より、開戦劈頭の真珠湾攻撃の意味について考えたほうがより生産的ではないか。真珠湾奇襲の成功が日本及び日本国民に異常な成功体験を抱かせてしまい、それがずるずると戦争を長引かせる大きな原因になったと思う。真珠湾奇襲の成功なかりせば、戦争はもっと短期かつ犠牲も少なく終結したのではないかと思う。将来展望もなく博打的作戦を強行したことの是非についてもっと議論されてよいように思うのだが。

「日本の植民地支配」は「ナチスは良いこともしたのか」と同じ論理の本だった

「日本の植民地支配」水野直樹他著 2011年刊 岩波ブックレット


2011年当時「新しい歴史教科書をつくる会」等による日本の植民地支配を正当化する議論に対し、一部の歴史学者たちが検証と称して反論を展開する書。  
2023年に刊行された「ナチスは良いこともしたのか」という本と同様、“日本は植民地に良いこともしたのか“という設問に対し、同書同様ほぼ全否定のスタンスをとっている。
朝鮮停滞論、韓国併合論、植民地貢献論などを逐一論破、否定していく様は、「ナチスは良いこともしたのか」と同じ手法である。

結論としては、同書同様、本書は冷静客観的とは言い難い一方的な議論という感が否めない。
たとえば、”朝鮮・台湾に当初参政権が認められなかった”というが、植民地である以上当然ではないかという反論にどう応えるか。
また、”経済開発は日本の利益のためであって、戦後の朝鮮・台湾の経済にたいしなんの貢献もしていない”という主張は言い過ぎ。植民地である以上、日本の利益が優先されるのは当然だが、だからといって植民地に何のメリットももたらさなかったというのはどうなんだろう。経済開発に必要なインフラ整備が植民地にとって何の貢献もしていないとは考えにくい。

 

以上、本書は、かくあるべきという理想論を前提に日本の植民地支配に批判を加えた空論といわざるをえない。
特に、本書について不満を覚えるのは、欧米の植民地政策・支配とその評価との比較が欠落していることである。
日本の植民地政策がいかに他国のそれと比較して異常であったか、過酷であったか、また植民地解放後の対応がどうであったかについて比較、論述することなしには、日本の植民地支配を冷静かつ正当に評価することはできないのではないか。

植民地支配が大国の支配である以上きれいごとばかりであるはずがない。しかし、それが収奪と圧政のみであったというのも現実的ではない。そういう点で、本書は「新しい歴史教科書」派に対する反論を意識しすぎて結果的に自虐論に陥っているが、それ以前に本書は客観性を欠いた認証バイアスにとらわれた書と言わざるを得ない。

「日本の植民地支配」は「ナチスは良いこともしたのか」と同じ論理の本だった

「日本の植民地支配」水野直樹他著 2011年刊 岩波ブックレット


2011年当時「新しい歴史教科書をつくる会」等による日本の植民地支配を正当化する議論にたいし、一部の歴史学者たちが検証と称して反論を展開する書。  
2023年に刊行された「ナチスは良いこともしたのか」という本と同様、“日本は植民地に良いこともしたのか“という設問に対し、同書同様ほぼ全否定のスタンスをとっている。朝鮮停滞論、韓国併合論、植民地貢献論などを逐一論破、否定していく様は、「ナチスは良いこともしたのか」と同じ手法である。

 

結論としては、同書同様、本書は冷静客観的とは言い難い一方的な議論の書という感が否めない。
たとえば、”朝鮮・台湾に当初参政権が認められなかった”というが、植民地である以上当然ではないかという反論にどう応えるか。
また、”経済開発は日本の利益のためであって、戦後の朝鮮・台湾の経済にたいしなんの貢献もしていない”という主張も言い過ぎ。植民地である以上、日本の利益が優先されるのは当然だが、だからといって植民地に何のメリットももたらさなかったというのはどうなんだろう。経済開発に必要なインフラ整備が植民地にとって何の貢献もしていないとは考えにくい。

 

以上、本書は、かくあるべきという理想論を前提に日本の植民地支配に批判を加えた空論といわざるをえない。

特に、本書について不満を覚えるのは、欧米の植民地政策・支配とその評価との比較が欠落していることである。
日本の植民地政策がいかに他国のそれと比較して異常であったか、過酷であったか、また植民地解放後の対応がどうであったかについて比較、論述することなしには、日本の植民地支配を冷静かつ正当に評価することはできないのではないか。

植民地支配が大国の支配である以上きれいごとばかりであるはずがない。しかし、それが収奪と圧政のみであったというのも現実的ではない。そういう点で、本書は「新しい歴史教科書」派に対する反論を意識しすぎて結果的に自虐論に陥っているが、それ以前に本書は客観性を欠いた認証バイアスにとらわれた書と言わざるを得ない。

「経済学者たちの日米開戦」を読む

「経済学者たちの日米開戦」秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く 牧野邦昭著

新潮選書 2018年刊

 

本書で紹介される秋丸機関の「抗戦力調査」は、同時期になされた総合力研究所の報告(猪瀬の「昭和16年の夏」に詳しい)と類似の報告であり、特に目新しいものでもない。「幻の報告書」というタイトルは販売を目的にしたキャッチコピーであろうか。

本書で著者の言いたいことは、幻の秋丸機関の報告書についてというより、次の2点であろう。
すなわち、①報告に記載された日米の国力の強大な差(20対1)が、”一般には知らされず政府・軍など限られた層だけで情報を秘匿し、彼らが独断的に戦争を開始した”という通説を否定し、軍や一般雑誌(雑誌「改造」など)により(その事実を)国民の誰もが知っていたという指摘。
そして、②「正確な情報は広く知られていたのになぜ開戦した」のかという理由として行動経済学社会心理学の知見を持ちだし、「プロスペクト理論(損失回避)でリスクの高い選択が行われやすい状況の中で、リスキーシフトが起きて極めて低い確率の可能性に賭けて開戦という選択肢が選ばれ」た(本書p.160)とする。

しかし、①についていえば、当時、そうした事実が果たして国民に”広く知られていた”と言えるだろうか。報道統制が徹底していた当時のマスコミが広く報道するわけもなく、米国へ行ったこともない大多数の国民に正確な情報が広く知られていたとはとても言えない。むしろ、国民は日中戦争の長期化に倦み、局面打開のために開戦を支持する気運のほうがはるかに高かったのではないか。天皇が”開戦しなければクーデターが起こる”と言及された判断は、そうした状況からしか生まれないはず。当時、「改造」などを読む層は、ごくごく限られた層でしかない。ありえないことであるが、新聞など多くのメディアが国民に正確に情報を提供していれば、国民の反応も違っていたかもしれない。著者の指摘は、ある意味、国民を開戦への消極的共犯者とする愚弄発言ともとれる。 
また、②については、何も行動経済学やら社会心理学などを持ち出さなくても容易に推察できることである。”可能性は低いとしても座して死を待つよりはましという開戦論が集団的意思決定で積極的、消極的判断いずれにせよコンセンサスを得た”ということは何も理論を持ち出すまでもなく容易に推定できることである。これは読者に対しもっともらしい理論を振りかざす学者の権威主義の悪しき例ではないか。

本書で問題なのは、そのような報告が開戦か避戦かの判断に何らかの影響を持ちえたかのような幻想を読者に抱かせることである。開戦直前の昭和16年半ばというタイミングでのこのような議論は、結果的には無意味であり、秋丸自信も回想で「今更そんな話を聞いても仕方がないという雰囲気でみんな居眠りをしていた」と言っている。(p.130) 海軍はすでに昭和15年暮れに水師準備に入っており、(よほど強力な世論・国民の反戦、避戦運動がなければ)開戦を避けることはできなかったというのが本当のところではないか。

さらに、根本的な問題は日米開戦について議論するには、少なくとも満州事変、さらには日露戦争にまでさかのぼった歴史的スパンの中で議論すべきという視点が一切抜け落ちていることである。(主戦派の軍人から)日露戦争の例を出されて「あの時も巨大なロシアと戦って勝利を得たではないか。なぜ今回のアメリカとの戦いで勝ちを得られないと断言できるのか」と問われたとき、はたしてどのように答えるのか。
”やってみなければわからない”と”声の大きい人が勝つ”という説は、現代でもそれなりに力を持っている。まことに厄介な話である。

 

また、開戦、避戦の議論が純粋に国益を考えた議論であったか、それとも陸海軍の組織防衛、利益維持のための生臭い思惑も入っていたのではないかという点も検証すべきであろう。

 

本書の秋丸報告や総力戦研究所の報告も、単にそうした事実があったということ以外、残念ながら現代に生きる我々にとってほとんど何の教訓にもならないのではないか。

 

「検証 ナチスは良いこともしたのか」を読む


「検証 [ナチス]は「良いこと」もしたのか?」 小野田拓也・田野大輔共著 岩波書店 2,023年刊 書評
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朝日の天声人語での言及についてのコメントに加え、もう少し本書についての感想を詳しく書きたい。

 

フェイクニュースヘイトスピーチなど現代の風潮を考えるとタイムリーな本であり、それなりに売れていることは結構なことと思う。しかし、タイトルは、著者たちが批判する「売らんかなで出版される一般書のセンセーショナリズム」(p.112)そのもののような気もしないでもない。

さて、内容であるが、著者たちはナチスの政策をオリジナリティ、政策目的、結果という切り口で検証していく。
そして、オリジナリティーについては、ナチスの政策は前政権の功績で独自の政策の成果はなかったとし、政策目的については、すべて戦争準備という不純な目的のためのもの、また、結果については、誇張された宣伝と女性の職場からの排除や徴兵制などによる見せかけによるもので、雇用政策・経済政策・公共政策などいずれも言うほどの成果はなく、逆に反ユダヤの推進など負の面が隠されていた、としてナチスの政策について全否定する。
こうしたナチスに対する全否定は、「ナチスは・・・こうあってはならないという絶対悪であり、そのことを相互に確認しあうことが社会の歯止め」になる(P.3)という著者たちの強い信念からきている。その気持ちはわからないでもないが、ナチ体制を「ならず者国家」(p.116)と断じるなど著者たちの主張は冷静さを欠いた感情的批判ととられても仕方がない部分があるように思う。オリジナリティがなく、目的が不純でも、短期的にはそれなりの成果があったと評価される政策はいくらもある。そうした面を、すべて戦争準備のための政策として否定するのは余りに一面的と思う。
本書を貫くナチス体制・政策の全否定論が、一つの歴史的事実に対する解釈として果たして正しいのかという素朴な疑問が残らざるを得ない。

さらに本書に関して次の二つの疑問点がある。
一つは、ナチス体制・政策の全否定論が正しいとして、どうしてドイツ国民の支持が得られたかということ。
なにゆえにナチスドイツ国民から多くの支持を得、国民を戦争にまで引きずり込むほどの力を持ったのか、その原因は何だったのかについて何の言及もない。「多くのドイツ人がナチ体制を支持するに至ったすべての要因について検討を加えることは、本書の限られた紙幅では困難」(p.33)と言うが、本書の論調からは巧みな宣伝と暴力を駆使したナチスの飴と鞭の政策に国民がからめとられてしまったとナイーブに理解する読者も多いのではないか。本書が若い読者を対象とする入門書的なものであればなおのこと、少なくともこの疑問に多少とも答えない限り本書は底の浅い善悪論に終わるだけではないか。石田勇治著「ヒトラーナチス・ドイツ」(中公新書)では、悪名高い反ユダヤ政策について「ユダヤ人は人口の1%にも満たない少数派で」「ユダヤ人の運命は当時の大多数のドイツ人にとってさほど大きな問題ではなかった」(同書p.290)と指摘している。事の真偽も含めて、こうした当時の社会状況の指摘との関連にもっと言及すべきであろう。

さらに、もう一つの点は著者たちの主張が独善的、かつ視野狭窄的な主張と思える事である。
著者たちは、「whataboutism」 の論法(p.110)と「中二病的」反抗(p.111)という言葉を使って本書への批判を封殺している。不勉強・無責任な批判に対し専門家として辟易しているのかもしれないが、自分たちの主張への一切の批判を封殺しているようにもとれる。「中国の人権問題を持ち出して、ナチス戦争犯罪を相対化する」のは「悪の相殺」であるという趣旨はわからぬでもないが、中国の人権問題とナチス戦争犯罪を比較して論ずること自体をも否定しているようにもとれる。

以上の評者の批判は、単なる誤解であり考えすぎかもしれない。しかし、それが著者たちのナチス体制は「ならず者国家」だという扇情的でおよそ学者らしからざる表現に対する率直な反応であり、”検証”と言いつつも最初から「ならず者国家」という結論ありきの確証バイアスに侵された本ではないかと危惧する所以である。